博多織とは

博多織の起源 ~770年の歴史と伝統を受け継ぐ伝統的工芸品「博多織」

謝太郎國明(しゃたろうこくめい)の船 鎌倉時代、嘉禎元年(1235年)33歳の満田彌三右衛門(みつたやざえもん)は、圓爾辯圓(えんにべんえん)(勅諡聖一国師(ちょくししょういちこくし))と共に謝太郎國明(しゃたろうこくめい)の船で、南宋(中国)明州へ向け、博多の津を出発します。

宋に6年間滞在して、圓爾辯圓は禅の修行をし、満田彌三右衛門は織物、朱、箔、素麺、麝香丸の5つの製法を修得して、仁治(にんじゅ)2年(1241年)博多の津に帰ります。

博多に戻った彌三右衛門は、これらの製法を博多の人々に伝え、その中の織物技法だけは家伝とし、広東織と称して独特の技法を加えながら代々伝えていきました。

さらにその約250年後、彌三右衛門の子孫、満田彦三郎が中国・広東へ渡り、織物の技法を研究して帰ったと伝えられており、その技法を彦三郎は竹若藤兵衛に伝え、共に改良工夫して、琥珀織のように地質厚く、浮線紋もあり柳条もあるという織物を作り出しました。

そしてその織物が作られたこの土地、博多の地名をとって、「覇家台織」(はかたおり)すなわち博多織と名づけられたと伝えられています。

「博多献上」とその名称由来 ~繊細、華美で独特の張りがあって締めやすい博多織。

独鈷を図案化した模様 慶長5年(1600年)黒田長政が筑前を領有するようになってからは、幕府への献上品として博多織を選び、毎年3月に帯地十筋と生絹三疋を献上するようになりました。

その模様は仏具の「独鈷」と「華皿」との結合紋様と中間に縞を配した定格に固定されていました。

それ以前は単に独鈷、華皿浮け柄といわれていたものが、それ以来「献上」と呼称されるようになったのです。

独鈷(どっこ)
密教法具の一つ。真言宗では、煩悩を破砕し、菩薩心を表わす金属製の仏具であり、修法に用いられます。細長く手に握れるほどの大きさで、中程がくびれ両端がとがっています。
独鈷を図案化した模様
↑独鈷を図案化した模様

華皿(はなざら)
元来は仏具の一種。仏の供養をするとき、花を散布するのに用いられる器です。
華皿を図案化した模様
↑華皿を図案化した模様

縞(しま)
献上の模様の「縞」には両子持(りょうこもち)と中子持(なかこもち)を使います。
両子持(孝行縞)
↑両子持(孝行縞)
中子持(親子縞)
↑中子持(親子縞)

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